Leopold Godowsky




Leopold Godowskyはピアノ音楽史上、非凡な才能を示した人間のうちの1人であった。彼は1870年2月13日に現在のリトアニアの首都ヴィリニュスで生まれた。生後1歳半で父を失い、少年時代は貧困に苦しんだ。そのためか、幼いころは大した教育を受けるわけではなく、ピアノは文字通り独学で学んだのであった。しかし非凡な才能は幼少時から示され、7歳のときには作曲に熱中し、9歳のときにはすでに演奏会を開くまでになっていた。その後、彼はケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)の銀行家の援助を得てベルリン高等音楽院に入学した。彼は音楽院を卒業後、サンサーンスと交流を持った。このため、サンサーンスがゴドフスキーの教師であるとの評もあるが、ゴドフスキー自身はサンサーンスの影響について次のように述べている。「私はパリに行き、サンサーンスのためにずいぶん弾きました。しかしレッスンは受けません。私の作品も含めて、私が彼のために弾くと、『いや、すばらしい』とか『凄い』『見事だよ、君』とかいうようなことを、いつも言ったものです。彼は心から言っていましたけれど、これは私に何かをもたらすほどの批評ではありませんでした。」彼はサンサーンスに出会う前にアメリカへ演奏旅行に出かけたが、言葉の問題もあってこの時は大した成功を収めることはできなかった。彼が初めて大きな成功を手にしたのは、1900年のベルリン・デビューの時であった。彼はコンサート恐怖症であり、ほとんどの場合、演奏会では自分の実力を満足なほど出し切ることはできなかったのではあるが、このベルリン・デビューの時には彼は例外的な幸運に恵まれてほとんどあがらなかったと述べている。こうして彼はベルリンで熱狂的な歓迎を受け、当時ベルリンを席巻していたブゾーニと人気を二分した。ゴドフスキーはベルリンで演奏家として活躍する一方で教育者としても活躍した。1909年から1914年まではウィーン音楽アカデミーの教授であったが、第1次世界大戦の勃発にともなってアメリカに渡った。このように名声を手にした彼であったが、晩年の彼には次から次へと不幸が訪れた。妻の死、息子の自殺、1929年からの大恐慌の影響の直撃、そして1930年にロンドンでレコーディングしている最中に卒中に襲われたのであった。彼は1938年11月21日にニューヨークで亡くなっているが、死ぬまで演奏活動に復帰することはなかった。



ゴドフスキーが大変な実力を持つピアニストであったにもかかわらず、それに見合うだけの評価を得ていない原因の一つに、彼がコンサートの場で実力を十分に発揮できなかったことがある。彼の技巧は、少なくとも練習室においては古今のピアニストを通じて最も完璧なものの一つであったことを疑う人はいない。しかし、演奏会になると、彼の演奏にブレーキがかかってしまうのである。このことに対し、ヨーゼフ・ホフマンを初めとするゴドフスキーの仲間は非常に惜しんだ。彼は巨大な音を好まなかったが、両手の独立、指の均等、ポリフォニックな絡みをこなす能力、そして全般的な仕上げにおいて彼はピアノ音楽史に大きな足跡を記している。また、彼の作品は細部が非常に念入りに作られ、多くの内声が入り組んで大変に複雑であるので、完璧に演奏できる人はほとんどいない。そのため、彼の作品はほとんど取り上げられることはなく、多くは忘れ去られてしまったのである。生前、ゴドフスキーは未来のピアニストのために作曲していると評された。果たしてその「未来」は来たのであろうか。




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